震災から1000日


 あの震災から1,000日がたちました............
 今でも朝、早く目が覚める度に思い出す、あの揺れ。まだ明けきっていないマンションの窓の下の光景の中で、みんなの家が、町が崩れていく、毎朝挨拶をしていたあのお爺さんの家が、一生懸命道を掃除していて、そのお礼も言っていなかったおばちゃんの家が、つぶれてゴミになっていく有り様を私はベットの中で起きあがることもできないほどの恐ろしい揺れの中で、ただただ眺めていたのでした。
 今でも、あれは夢だったのではないか...そんな気がします。目が醒めたらみんな元気でいるのではないか...と。

 本人はそんな想いから抜けきれずにおりますが、たまたま当日にカメラを取り出すことができ、フィルム一本分を撮影しその写真が手元に残りました。思えば、その前から、ある日突然、昔仕事で使っていたカメラを見たときに、「ライカが欲しい」と思いつき、コンタックスT2とM6とエルマリート28ミリ、90ミリを購入。しばらく、めたらやたらに古い街並みを少しづつ撮影していったのは、神の声であったかもしれません。震災の当日はそのコンタックスのT2が「これをもっていけ」と言わんばかりに、床の上に転がっていたのです。フィルムのコマには18枚のあきがありました。


【震災当日】

家の窓からの景色 コンタックスT2 ゾナー38ミリ

 揺れが終わって、マンションから火が出ないか、下まで降りて避難して、そして安全を確認し、家内の実家の安全も確認し、やっと家に上がると、私の部屋の扉は開かない、テレビやステレオは数メートル跳んで全く違うところに倒れている、外を見渡せば道の真ん中に家がずれ込んでいる、悪夢を見ていると思うだけの状況だった。居間の真ん中に家内が使うことから他のカメラとは別に置いてあるコンタックスT2が見えた。消防車のサイレンの鳴り響き、人の声のする中とりあえずシャッターを切ったのがこの写真だ。このときには、どこが震源地がわからないので、京都に住んでいる両親や兄弟達が心配だった。

職場までの道には方々で火事が... コンタックスT2 ゾナー38ミリ

 マンションが無事なのを確認して、家内をここに置いて職場に行くことにした。歩けば1時間半という道のりだろうか。このときはわからなかったが、震災により地面が大きく動いたことで、消防用の水道管が細かく切断され火事は消せる状態ではなかった。私は未だに家内に「まわりが火事なのにその中に置いておかれた」と言われている。ただ、これでも公務員なので、こんなときにはやはりがんばって行かなければ....おそらく被害は他ではこんなものではない、きっともっと凄いことが起こっているだろうと他を心配していた。

 歩き出すと、もうそこここで、「助けてくれ」「おばあちゃんが下敷きや」などの声が聞こえた。一つ一つ妙に冷静に、「ちょっとここに来てやって下さい」と言って、周辺の人を集めたり、火の回っている建物から年寄りと子どもを引っぱり出したりしながら家のまわりを歩いていった。どうしてこんなに冷静なのか、自分でも気味が悪かった。自分には感情がないのか、なぜこんなに冷たい人間なのかとあきれていた。しかし、それでも一番ひどいところ、むごいところでは流石にシャッターを押す気にはなれなかった。やはりプロのカメラマンとは姿勢が違う。長田区役所付近で、比較的小さな火事を離れて撮れそうだったので、シャッターを押した。一つには燃えているのが家内の友人の歯科医さんの診療所があるところだったからもある。いずれこれを本人に渡してやろうと思っていた。

栄町通の中国銀行  コンタックスT2 ゾナー38ミリ

 歩いて1時間ほどたつと神戸の中でも繁華街の中に出た。本来ならもう少し早く到達できるのだが、ポケットにねじ込んで入れていた消毒薬をけが人に塗ったり、人が挟まれている瓦礫をのけるのを手伝ったりしたために随分時間がかかってしまった。こんなときに、例のホラー映画で使われる自動ノコギリがあればどれだけの人がさらに助かっただろう...と思わずにはいられない。走ってくる車を手でとめてはジャッキを置いていって貰い、一生懸命、家の梁を持ち上げたりした。気が付いたら上着の左手がベットリ血糊がついていた。前髪は少し焦げていた。

 繁華街は全くといっていいほど人影がなかった。どの建物もひどい被害を受けていたが、ほとんど人的被害はなさそうで、一瞬にして人類が死滅したという設定のSF映画に出てくる都市のようだった。たまに人とすれ違ってもお互い無言のままだ。遠くで消防車のサイレンだけが社会の動きを伝えていた。ほとんど無音で静かなのだ。建物で特に被害を受けているのは銀行で、キャッシュディスペンサーから飛び出した小銭が道の周辺にコロコロと転がっていた。札束はだれか抜いていったのかな...などとボンヤリ思いながら、本来だったら人通りの多いはずのこの時間、不思議と私と冷たい風しかいないようなこの街をスタスタ歩いていった。

 写真は神戸港から少し北に上がったところにある神戸の金融の中心の栄町通のビル。正面から見たとき、ああこのビルは大丈夫だったのかと思って見上げると、なにやら不自然で、よく見ると舞台装置のように上っ面だけが残っていた。こんな光景を一人で大都会で見るというのは誠に不思議だった。今でもなぜあそこに人があんなにいなかったのか、不思議なのだが......

つぶれた職場   コンタックスIIIa  ビオゴン35ミリ

 やっとのことで職場についた。ここも様子はひどいものだった。自分たちが先日までつめて仕事をしていた会議室はものの見事にペシャンコになっていた。幾つかの建物があるうちよりにもよってこのフロアだけがつぶれていた。震災が数時間遅くにあれば死んでいたに違いない。中に入っていた設計図等のすべてを取り出すことは危険であり、この建物をこの階まで解体する際に追加していくつか取り出せたに過ぎない。

 この写真は震災当日ではなくそれから2週間ほどして撮影したものである。震災の当日にクラシックカメラ屋へ取りに行くはずだったツアイスの戦後型のビオゴンで撮影した。震災当日にはこれを受け取るために数万円の金をポケットに入れていたため、現金があり、少し心強かった。

 当日はこの建物(市役所)に避難してきた人の世話と、建物の中でガタガタになった什器類の整理をしていたら、夕方になってわが家が火災で燃えるかもしれない...と言われてあわてて徒歩で様子を見に戻った。途中、自衛隊のものものしい装甲車の行列がやってきた。繁華街の三宮では、店に行ったら誰かが入り込んでいた....などと恐ろしげに私に訴える人もいたので、やっときたか....と頼もしげに思えた。今考えたら司法警察ではないので、そんなことには動けないのだろうが.....自衛隊の装備で火災は押さえられないのか...と期待する近所の人もいた。家の近所まで来ると、そこらじゅうが黒煙が上がり、赤い炎の山となっている街区も多く、大変な様子になっていた。家内の実家ももう燃えるかもしれない...というのでその周辺の人たちとともに私の家に避難してきて、この夫婦二人で住んでいるマンションが十数人の人間と、荷物とで一杯になってしまった。

 その夜はいつ燃えるか、いつ火がやってくるかそれだけを気にしながら、荷物を整理して少し眠った。.......幸い炎は道で遮られ、途中で自然鎮火して翌日までで火事は収まっていった。


【震災から少したって】

焼け跡を眺めて  コンタックスIIIa ビオゴン21ミリF4.5

 震災の翌日から避難所開設の仕事についた。幸い近所の長田区内の避難所の責任者になった。施設としては最も居住環境のよい避難所だったのと、もともと職員が配置されている場所だったので、もめ事は多くてもなんとか責任者としての仕事は勤まった。幸いなことに家から近かったので、少し時間ができた。避難者間の言い争い、健康を害して倒れていく高齢者、職員達の不安な声といったものを身をはって処理していくストレスがたまり、自分では正常なつもりでもかなり異常な精神状態にあったように思われる。これを解消するのに時間があるのはよいことだった。日々、カメラを持ち歩いたり、付近の...といっても大阪までは江戸時代と同じ距離感覚になってしまったので、神戸市内に限るのだが、クラカメ屋に出かけては、手元にある金をどんどん消費するような仕儀となってしまった。今考えてみると、毎月ばく大な金をつぎ込んでいた。ある月はスーパーアンギュロンの21ミリF3.4を買い、次の月にはビオゴン21ミリF4.5、その次の月には、ズミルクス75ミリF1.4を買っている。手元のクラカメコレクションには全く被害がなかったのもある意味ではこれにかえって輪をかけた。家内の集めていたウエッジウッドやマイセンはほとんど粉々になってしまっていて、しばらくはこの趣味は途絶していたのに比較して.....

 ビオゴン21ミリを抱えて、家のすぐ近所の火を受けて燃え切ったゾーンを撮影した。少し広い道がこの火事を阻んだのだが、そのすぐ向こう側は家内の実家の市場がある場所だ。誰も近寄ることなく、まさに廃虚と化していた。ここの一区画ひと区画に幸せを願う家庭が個々にあったことを考えるとシャッターを押すのに思わず涙が出た。

廃虚の中でも人は生きていく コンタックスIIIa ビオゴン21ミリF4.5

 ビオゴン21ミリとコンタックスで撮影をして便利なのは、ありとあらゆるマスコミが入り込んで、私の担当する避難所も朝日新聞社のカメラマンが住み込んだりして取材をする中、みんなが一眼レフ恐怖症になっていった。あのオートフォーカスの低い音に聞く耳をたてるようになっていく中、私のピッカピッカに白く光るコンタックスIIIaという金属の塊で、ネズミの鳴くような短く鈍いシャッター音をさせるている、震災の時の土蔵から出てきたカメラかいな...という感じで避難している人たちは区別してくれたようだ。所長さん記念に撮ってくれとか、見せてくれとか言って、近寄ってきてなじんでた。ただ、私は職場では自分の手元に残す写真は撮らなかった。カメラをちらつかせることもしなかった。行き帰りにぶら下げることだけ、頼まれたらフィルムを入れて撮って、ネガごと記念に上げることにした。そんな写真しか仕事の場では撮らなかった。今考えてみれば、被災して家をなくした人たちと一緒にいるときには、記録として写真を撮るというような醒めた気持ちにはなれなかったのだろうと思う。

 戸外ではその他の長田区住民としてシャッターを押した。このころネットに復帰したが、NIFTYやPC-VANの仲間が心配して電話してくれたり、いろいろと面倒をみてくれた。これは今でも感謝している。

わが家の前の様子 コンタックスIIIa ビオゴン21ミリF4.5

 わが家に移り住んでいる住人達も一週間で電気が通り、水が2ヶ月間で通るようになり、さらに半月で下水が、そしてさらに半月でガスが通り...ということでだんだん生活が落ち着いてきた。
気心の知れた人たちであること、それに私の性格もあって同居人がたくさんいることは全く気にならない。むしろ近所の様子が心配であった。道隔てたところにはしばらくの間は解体できないで残っている建物が崩れて人に与える危害が気になった。

 ある日、ユンボウがやってきて、向かいの建物をたたき壊した。私は勤めに行って自宅にいない日だった。「あの音は一生忘れられないほど恐い音だった」と義母が語った。

解体工事などものともせずにマイペース レチナIIIc クセノン50ミリF2

 解体工事がそこここで始まる中、人は慣れっこになっているのか平気で生活するようになった。この写真でもとてつもない恐い工事をしている下を老女性が平気で買い物スタイルで歩いていく。この光景は私の家から1分も離れてないところで見受けられたものだがそこここでも同じような様子であった。

 小さなカメラが便利でしばらくレチナを使っていた。ちょうどこのころ避難所で次々に高齢者が倒れていき、1日に何度も何度も救急車を呼ぶ事態が続いた。「国境なき医師団」の医師が私の避難所には常駐していたがそれでもなかなか解決しない問題だった。電機メーカーにお願いして加湿器を寄付して貰ったり、いやがる避難者達に窓をあけさせて外の空気を吸わせたり、姑のようなことを続けた。

山陽電鉄西代駅の解体 ライカM3 ズミルクス35ミリF1.4asph

  カメラ道楽がその後も私の精神状態をなんとかストレスなしで支えていた。震災前に予約していた非球面アスフェリカルレンズをつけたズミルクス35ミリF1.4が入庫した旨、大阪のレモン社から電話連絡があった。しかし、まだJRが開通していない。それでいつのまにかこのためにとっていたお金はスーパーアンギュロンに消え、順番をもう少し後にして貰うことにした。5月になると、JRが復旧したので買いに行ける、金がないという事態になった。結局、月賦で買うことにした。ライカのレンズを毎月月賦にかけるということで、これから何本か買っていくか....と思ったものだ。

 最寄り駅の西代駅はひどくやられていたのと、もともと地下に移る工事をしていたこともあって早い時期に解体が決まった。震災前からボロボロの駅だったが、震災で本当にひどい状況になって見ていて胸が痛んだ。そんな駅に比べて未だに地下にある現在の駅は疎遠だ。愛着がわかない。

夜の新長田駅南側 ライカM6 ズミルクス35ミリF1.4 旧型

 非球面アスフェリカルに続いて従来型のズミルクスを購入した。怪しげなボーッとした映像が私の趣味に合う。夜の光のバランスはやや落第生の描写だが、それもそれで楽しい。手持ちの1/4秒でもこれだけ撮るのは一眼レフでは私は無理。ライカならではだ。

 しかし、被災地の夜は哀しい。今まで活気があって飲み屋があって、パチンコのバックグランドミュージックがあって、なんとなく雑然としていた街が、シーンとした闇の中に消えているのが辛い。あの日が帰ってこないのか....あの人たちが戻ってこないのか、そう思うと声を上げて泣きたくなる。


トアロードで突然傾くビル  ライカM6 スーパーアンギュロン21ミリF3.4

 震災以降、長田の人たちや須磨の人たちと避難所での生活をそれぞれ違った立場でしていたが、人事異動があって、建物の解体工事の手続相談やクレーム処理の仕事になった。問題のある物件の訴訟や示談もしなければならない。工事だけではなく、この制度や市の方針への苦情の受付をし、被災した人たちの生活相談にものらなければならない。被災した人たちを踏み台にして地上げをしたり、廃棄物処理業で一儲けを企てる輩とも、話をつけなければならない。一番多いのは、被災者同士の持っていき場のない怒りが、もつれあった喧嘩の仲裁。そんな、なり手のない仕事だった。最初の半月は部下もなしで、アルバイトのおねえちゃんと二人だけでこの仕事に追われた。苦情は朝から晩まで電話はなりっぱなし。それでも夜は帰れるし、寝泊まりまでする必要はない。こんなときだからがんばるのだが、少し楽になったかなという思いもあった。

 しばらく仕事をしていると、神戸の花の街路のトアロードで華僑の人が持っているビルが解体工事準備中にドドッと傾き始める事故があった。隣のビルのオーナーは、気が転倒して、責任問題かはっきりするまでは解体工事はまかりならん、と言ってみたり、解体工事を早くやって貰わないとえらいことになると言ってみたりひどく混乱していた。役所にしてみれば、これは個人受けの工事なので今のところ責任ない。何か手を出せば役所にも責任が出てくるというので当初は静観。工事の準備をしていたゼネコンだけが大慌て。解体するビルの持ち主は「私は知らない」と逃げ腰。こんなことで工事は一月以上なにもできず、新聞には載るは、国会でも写真が出るわで大騒ぎであった。自慢話ではないのだが、私には高校時代からこの通りが好きでなんとかしたいという想いがあった。そんな気持ちに技術の責任者の人も同調してくれて、夜にビルのオーナーや隣のビルのオーナーの華僑の人たちを回って説得、ゼネコンも参加して解決策を練ることが出来た。上司も支持してくれて、工事の費用のかなりの部分は役所持ちで処理工事が出来た。震災で一番ホッとしたことの一つだ。

 この写真は傾いて2日ほどしたときに初めて見に行ったときの写真。ストレスの溜まるの恐れて、このときは仕事もクラカメやライカを使っていた。スーパーアンギュロンは動的なドラマチックな描写にはむいている。この写真、レタッチが悪いけど、レンズの描写はもっとずっとよい。

1世帯が残って解体できない長屋  ニコンS2 ビオゴン21ミリF4.5

 仕事していて一番辛いのは、「まだ住める」と未練のある人達を説得して仮設住宅に引っ越させることだ。ここに残りたい、ここで生活したいという想いはひしひしと伝わってくるし、またそういう想いを大事にしないと地方行政サービスはできない。かたや、大家さんも被害者ではあるのだが、ここで一つ取り返そうという打算を持っている人もいる。

 写真の建物も一軒だけが出ていかないで何度も話し合いをした。雨で徐々に傾いていって、最後は納得してくれたようだが、誰も悪くないのに辛いことだった。この仕事ではこの写真を撮影したニコンS2を一番よく使った。金属部分がライカよりも頼もしく思えるほどに頑強で、動作も道具としてはデリケートではないがしっかり動く。ファインダーも良い。RFコンタックスのレンズも広角の35ミリまでは距離計の誤差もそうなく確実に写真を撮れる。50ミリの標準でもまあ近接以外は大丈夫のようだ。S2はS3やSPより機械らしい感触でニコンのレンジファインダーとしての個性はこのS2が一番だと思う。ニコンで一番好きなカメラ。

長田の市営住宅の解体  ライカM3 スーパーアンギュロン21ミリF3.5

 自分の仕事ではないのだが公共施設の解体も参考になるので、土曜・日曜日にはカメラを抱えて色々なところを見に行った。本来は技術屋さん任せたが、工事のことも知らないと相談にのれないのは民間の家屋の担当も同じだ。この仕事をしていると広角レンズそれも21ミリクラスの対称型のレンズがとても重宝する。一眼レフのグニャっと曲がった描写のレトロフォーカスタイプのレンズは使えない。そんなレンズで撮った写真は技術屋さんが鼻にもひっかけてくれない。私の中で、『広角はレンジファインダー』という意識が強くなったのはこの仕事のせいもあるかもしれない。動の描写のスーパーアンギュロンと静の描写のビオゴンはどちらも甲乙つけがたい素晴らしいレンズだと思う。

山陽電鉄板宿駅の跡地 1997.8.15 ライカM6ズミルクス35 F1.4asph

 仕事以外でもウロウロとしていた。振り替えで休んだ終戦記念日に、以前勤めていた避難所に残っていた老人がどうしても父親の墓参りに行きたいというので墓地まで連れていってやった。マレーの海戦でなくなったとのことだった。その帰りに鰻を奢ってあげて板宿の駅前に出たときに、解体され更地となった駅の跡を囲む金網のむこうに、どこかのマンションの窓に干してあったのが風でとんだのだろう雨傘がゆらゆらと揺れていた。金網にレンズを寄せてこの写真を撮った。人の心が傘に乗り移った気がしたからだろうか......

inserted by FC2 system